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November 2008 Archive

観音寺城、宮津口を下る

この記事の公開日は2008年12月8日です。日付を修正して表示順序を変えています。

以前から気になっていた宮津口筋を下りてみた。

山腹を西側に下りる宮津口筋があまり話題になることはない。しかし落合丸に宮津口があることに加え、池田丸にも平井丸にも西側に、宮津口筋につながる木戸口が付けられている。さらに本丸から池田丸に続く尾根筋の郭の西側には、立派な石垣を持ついくつもの郭がある。宮津口筋はこれらの郭と山裾との往来には無くてはならない重要な道筋であったのではないかと思う。

この道筋を下るにあたり、予備知識を得ることができなかったので若干の不安があlった。しかし実際に歩いてみると、道筋がはっきりしないところは多いものの、周囲は明るく安心て歩くことができた。またこの道は迷う心配のほとんどない無いまっすぐな道だった。

落合見付を出た後、道らしくみえるところを下りいくつかの石垣の間をとおり過ぎると、谷に合流する。そしてこの谷と谷沿いに道をどんどん下っていったところ、宮津ではく桑實寺の参道入り口付近に出た。

結局のところ、下り着いたところが宮津ではなく桑實寺なので、言い切る自信はないがたぶんこの道が宮津口筋なのだと思う 。

まず、落合見付(宮津口)を出てすぐに左に折れ、石積みの裏側(犬走り)を進む。
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地図に示された方向に道らしきものが続いている。その道を少し下ると小さな石垣に遭遇。
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崩れた石垣が多く、道や道の両脇に崩れ落ちた石がごろごろ転がっている。
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木々が生い茂っているが、なんとなく道はわかる。
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突然大きな石垣が出現。これは立派!
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上下 2 つに分れており、一つの石垣の上にもう一つの石垣が積まれているように見える。
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角の部分は崩れている。
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この道筋には石積が多いがその大部分は崩壊している。
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こんな道が続く。
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崩れた石垣
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この石垣はまだ原型を留めている。
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この先 10 分間くらいは石垣はない。
下るにつれ道がだんだんはっきりしてくる。道は明るく巨石が多い。これはたぶん古墳。
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しっかりと蓋がしてあるように見える。未盗掘?
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砂防の石積みの脇を下りる。この谷筋にはこのような砂防の石積がところどころにあるが、これらはあきらかに新しい時代のものであり、観音寺城とのかかわりは無い。
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道は広く歩きやすい。このあたりに来ると断続的に石段が現れる。
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この道を下りきると、桑實寺の参道入り口付近に出る。手前に見える石段は桑實寺参道。
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この後、来た道を引き返す。以下は尾根付近まで戻った後の写真。
尾根に近づいたあたりでうっかり北側にそれてしまった。道には石段が埋設されている。
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巨大な石垣が出現。高さ 4-5m 、長さ 30-40 m くらいはありそう。孫次郎邸?
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この石垣の郭に入り、石垣の上から下を見下ろす。
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観音寺城西側の遺構があまり話題になることは無いので、これほどまでに立派な石垣があるとは思いもよらなかった。

それにしても、観音寺城には登城道が多く合計14 条の道があるといわれている。宮津口筋のその一つであるが、今日歩いた立派な道はもしかすると宮津口筋では無く間道なのかも知れない。はたしてこのような間道はどこに、そしていくつあるのか?その全容に興味は尽きない。

追記: その後入手した情報によると、この道は間道ではなく、まさしく宮津口筋として伝承されている道であるらしい。また、故田中政三氏の著書である幻の観音時城には、この道の東側(桑實寺側)の尾根を越えた次の谷に、石を敷き詰めた立派な間道があることが紹介されている。

観音寺山から安土を望む

この記事の公開日は2008年10月15日です。日付を修正して表示順序を変えています。

観音寺山(繖山・きぬがさやま)と安土山は地続きになっており、峠道である京街道(挑戦人街道)を超え尾根伝いに安土山に入ることができる。観音寺山の山頂(繖山三角点)付近は非常に見晴らしが良く、安土山および安土山までの尾根筋が一望できる。

織田信長は、観音寺城を落としたあと観音寺山から安土山を眺め、即座に、そこに安土城を築くことを決めたのではないか?と考える人も多い。そのころ琵琶湖の湖面は安土山の麓にまで達しており、ちょうど安土山は琵琶湖に突き出す半島のようだったらしい。それを見て信長は、防御面に加えて海運上の利便性に気付き、そこに築城することを即決したとのではなかろうか?

また、観音寺城と安土山とは絶妙な位置関係にある。信長は観音寺城を詰め城として使用することなどさまざまなアイデアを膨らませたに違いない。事実、観音寺城は安土城築城後もすぐには廃城にはならなかったらしいが、信長が観音寺城をどのように考え、活用したのかたいへん興味深いところではある。

講釈はさておき ...

尾根続きの山の正面付近(写真の真中)が安土山。その後ろに西の湖が見えさらにその背後に八幡山がそびえている。そしてその後ろは琵琶湖。観音寺山尾根筋の左側は安土町。右側は東近江市、そして西の湖の後方は近江八幡市。なお、2010年 3月に安土町は近江八幡市と合併し、近江八幡市安土町となった。
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安土山の左(西)側には安土城の城下町として栄えた下豊浦(しもといら)の集落が広がる。
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尾根道は良く整備されており歩きやすい。
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東近江市能登川町方向をのぞむ。右側の山すそには須田の集落が広がる。正面には伊庭内湖が見える。
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観音寺山は尾根筋の見晴らしもステキ!

ついでに、観音寺山から見える冬景色はというと、こんなかんじ。
繖山三角点から、尾根伝いに500mくらい北に進んだところ。安土山/下豊浦/西の湖方面
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安土山 / 南須田 / 伊庭内湖方面.。
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山の反対側の景色。眼下の集落は、東近江市五個荘町。
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ついでに、別の日にとった一枚。見晴らしが良いのは 2001 年の山火事で樹木が消失したため。
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この尾根伝いの道は雨宮龍神社や北向き11面観音を経て、猪子山北端まで続いており、北端を尾根伝いに東に折れたその先には佐生城がある。

観音寺城の大手道、本谷筋を下る

この記事の公開日は2008年10月13日です。日付を修正して表示順序を変えています。

観音寺城、後藤邸と新藤邸の間の道を経て、本谷筋を下る。

本谷筋は、観音寺城h本丸に登る大手道とされている。また六角氏の有力家臣であり、観音寺騒動で殺害された後藤氏の郭(後藤邸)脇をとおる重要な道である。おそらく後藤但馬守賢豊は、この道のどこかで殺害されたのではないか? ... ということで、観音寺城フアンとしてはこの道の探検を外すことはできない。

入り口はここ(別の日の写真を再利用)
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いまでは、この入り口からしか大手道を下ることができないが、当時ここから下に延びる道が大手道とされていたかどうかは不明。 山裾から大手道をまっすぐ登るとここに到達するが、本丸大手階段へのルートとしては不自然である。 しかし、大手道と呼ばれていなかったとしても、この道が城内の主要な施設を結ぶ重要な道であったはずである。

中に入るとすぐに小さな郭がありその左脇に道らしきものが延びている。道を少し下ったあたりから先は竹の密林。
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道は山すそに向かって真っ直ぐに伸びており、左右に石垣が現れる。道のところどころに石段があるのがわかるが、土砂や堆積土で埋まっているので道の姿ははっきりしない。
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石垣が断続的に続く。山すそに向かって左が後藤邸で右が新藤邸。(たぶんこれは進藤邸の石垣?)道幅はよくわからないが、後藤邸側と進藤邸の石垣の間隔が 3 メートルくらいなので、道幅は 2メートルくらいなのではないか?
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後藤邸の崩れた埋門。門の向こうに郭の中が見える。
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道の左右には石垣が断続的に続く。振り返って見ているので左が新藤邸。
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進藤邸の石垣は、典型的な算木積みであるが、2 番石と呼ばれるつめ石な抜け落ち隙間だらけ。

さらに石垣の間の道を下る。この前方はとても進めそうにないくらい、くしゃくしゃに見える。
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枯れ竹が視界をふさいでいる。写真の縦横がわからないくらいに荒れている。
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倒れた枯れ竹をくぐったり踏み越えたりしながら前に進む。この道の右側は浅い谷。DSC_0758.JPG

後藤・新藤邸を過ぎてしばらくすると、竹林から雑木林に変わり道は谷に合流する。合流地点の前方には大きな段差があるので、右に折れて谷に入る。
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谷には水草が生えている。
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道は次第に広く歩きやすくなる。
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さらに進むと林道に突き当たる。林道の手前に大きな段差があるように見える。このまま直進するのは危険なのでここから来た道を引き返すことにする。
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林道にはは大きな土管が埋められており、林道を貫通するトンネルになっている。
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林道から本谷筋の山手方向を見る(前々日に撮影)今更ながら、よくこんなところを歩いたものだと関心することしきり。
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林道から本谷筋の麓方向を望む(前々日に撮影)。この位置から見下ろすと、とても突入する気にはなれないが、山裾から登ったところ、それほど困難な道ではなかった。
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観音寺城の道筋を示す資料には、本谷筋の林道より少し下あたりに御幸橋という名の橋がかかっていたことが示されている。以前、その御幸橋がどこにあったのか知りたくて手本谷筋を山裾から登ってみたところ、そのあたりには立派な砂防ダムがあった。

砂防ダム -2007年10月の写真。この写真にお中央下にに写っている道には石段があった。
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この日は天気が良く谷道に柔らかな日差しが差込み大変気持ちが良かった。そこで、ダムに登りまわりを眺めてみた。 確かに奥に道が延びているようだがこれはダムのへの取り付け道路? それとも、もともと御幸橋を通っていた道? いずれにしてもこの位置だとすぐに林道に出てしまうので、突入する価値は無さそうである。

ダムの上から西方向を見る。
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余談になるが、この本谷筋は昭和期の治山工事により、大破壊が行われたとのことである。故田中政三氏によれば、昭和 5年に治山工事のための石材の確保と、木材運搬用の道作りのため、本谷筋の 4丁目から 11丁目までの間に存在した 20 数段にわたる郭の大石塁が完全なまでに破壊されたということであった。

本来ならば大手道(本手筋)は最も重要な登城道であるはずだが、このような遺構の破壊のためか、現在ではその地位を完全に失ってしまっている。

本日歩いたコース - 図は田中政三著、近江源氏第一巻「まぼろしの観音寺城」から引用
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最後に、本谷筋(大手道)のルートについて確認しておきたい。上図によると本谷筋は、後藤・進藤郭郡への下からの入り口付近で右(東)に曲がっている。そして本谷筋は、この郭郡に入った後複数の道に分岐している。しかし、ここで分岐したいくつもの道の中のどれが、本来の本谷筋と呼ばれていたのか解説した資料はない。またこれを特定するための決め手になる、本丸下の大手階段へのメインルートもいまだ判明していない。ただし五個荘町史の中では、山裾から山頂までつながっている上図に緑色で示した道が本谷筋とされている。なおこの道の進藤邸北西付近は、崩落により消滅している。

この付近は大手道と追手道が交わるところであり、主要な区域に続く多くの道の交差点になっていると考えられる。もうすこしこのあたりの様子を知りたいのだが、あいにく密生した竹が進入を阻んでいる。

ということで、今回の紹介では後藤・進藤郭郡の中央を上がる道を、本谷筋(大手道)として取り扱ってはみたが、これが妥当であるかとうかについては不明。

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